「勝ち負けのない一手から、恋が始まる」
五十二歳の香澄が駅前のボードゲーム喫茶に入ったのは、雨で予定が消えた日曜日だった。 子どもたちは独立し、長く続けた事務の仕事も週四日になった。 好きなことをしていい時間が増えたはずなのに、一人分の休日をどう使えばいいのか分からなかった。 扉の向こうでは、学生も年配の客も同じテーブルを囲み、色とりどりの駒を動かしていた。 「初めての方ですか」と声をかけたのは、眼鏡を胸元に掛けた男性だった。

彼は直人と名乗り、店主に頼まれて初心者向けの会を手伝っているという。 香澄が選んだのは、勝者を決めるのではなく、全員で沈みかけた船を港へ運ぶ協力型のゲームだった。 直人は説明の途中で何度も「分かりにくかったら止めてください」と言った。 香澄が思い切って質問すると、彼はうれしそうに駒を並べ直した。 最後は全員で失敗したのに、テーブルには笑い声が残った。 香澄は帰宅してから、ルールを思い出そうと紙に小さな船の絵を描いた。 勝てなかったのに、次はこうしようと考える時間まで楽しかった。
次の週も、その次の週も、香澄は店へ通った。 直人は慣れた客にも初心者にも同じように話し、負けた人の面白い工夫をよく覚えていた。 香澄が「失敗ばかりですね」と言うと、「次に試したいことが増えますね」と返した。 ある日、閉店前に二人だけで片づけをしていると、直人が小さな紙袋を差し出した。 「先週、香澄さんが好きだと言っていた店のお茶です。 売り場で見かけたので」 自分の何気ない言葉を覚えていた人がいることが、香澄には驚きだった。
ところが、彼に会うのが楽しみになるほど、香澄の足は重くなった。 離婚から七年、誰かを好きになることを自分に許していなかった。 娘に「もう若くないのに」と笑われる気がしたし、直人の生活を乱すのも怖かった。 それでも直人が他の客と笑う姿を見ると、胸のどこかが静かに痛んだ。 香澄は一度だけ「しばらく用事があって」と嘘をつき、会を休んだ。
その日、直人から届いたのは、たった一行だった。 「また都合のいい日に、一緒に遊びましょう」 返事を急がせる言葉も、理由を探る質問もなかった。 香澄は安心すると同時に、自分から遠ざかって何を守ろうとしているのか考えた。 大切にされたいのなら、まず自分の気持ちを雑に扱わないことだ。 翌週、店へ戻った香澄は、直人に「終わったあと、少しお茶を飲みませんか」と声をかけた。
店の裏手の喫茶室で、直人は週末になると父の通院に付き添っていると話した。 「予定を自由に決められない日も多くて」と申し訳なさそうに笑う。 香澄も、自分が離婚を経験し、家族に新しい恋をどう話せばいいか迷っていることを伝えた。 直人は驚きも慰めもせず、「急いで答えを出さなくてもいいと思います」と言った。 彼の言葉に甘えるだけではなく、香澄も尋ねた。 「直人さんは、これからどんな時間がほしいですか」
「誰かと約束して、行けないときはちゃんと説明できる時間です」 直人は照れたように笑った。 「昔は、迷惑をかけるくらいなら誘わないほうがいいと思っていました」 香澄は、自分にも同じ癖があると気づいた。 相手を思いやるつもりで、会いたいという選択肢を最初から消していたのだ。
二週間後、二人は隣町の小さな美術館へ行く約束をした。 しかし当日の朝、直人から父が発熱し、病院に向かうと連絡が届いた。 香澄の胸に一瞬、置いていかれたような寂しさが走った。 以前なら「もういいです」と返して、傷つかないふりをしただろう。 今度は「心配ですね。 落ち着いたら、別の日に行きましょう」と送った。 自分の寂しさまで消すのではなく、後で伝えればいいと思えた。
数日後、直人は約束の延期を詫び、日程を三つ提案した。 香澄は「少し残念だったけれど、また誘ってくれてうれしい」と素直に伝えた。 直人は「僕も楽しみにしていました」と答えた。 会えなかった一日が、二人の距離を遠くするとは限らない。 約束を作り直せることが、むしろ新しい安心になった。
美術館を訪れた日、二人は絵の前で思い思いの感想を話した。 直人が面白がった抽象画を、香澄はどうしても好きになれなかった。 「今日は意見が合いませんね」と笑うと、彼も「次の一枚に期待しましょう」と笑った。 帰りの駅で、香澄は傘をたたみながら言った。 「私、直人さんといると、失敗しても、予定が変わっても、また続けられる気がします」
直人は少し黙ってから、香澄の目を見た。 「僕もです。 よかったら、これからは恋人として会ってもらえませんか」 香澄は胸が熱くなりながら、はっきりとうなずいた。 「うれしい。 私も、あなたが好きです」 その日の夜、香澄は娘に、大切にしたい人ができたと自分の言葉で話した。 娘は驚いたあと、「今度、話を聞かせて」と笑った。 恋をしたことを、恥ずかしい秘密にしなくていい気がした。
翌日、香澄の手帳には次の日曜日の予定が書き込まれた。 文字の隣には、小さな鉛筆の丸。 雨が降っても、予定が変わっても、消して書き直せる丸だった。 恋を成就させたのは、完璧な相手を探すことでも、心配を隠すことでもない。 それぞれの事情を持ったまま、会いたい気持ちを伝え、約束を結び直す勇気だった。


