「同じ高さまで登らなくても、恋は始まる」
真琴がボルダリングジムの扉を開けたのは、仕事帰りの水曜日だった。 駅前のビルの三階には、色とりどりの突起が並ぶ壁と、床いっぱいの分厚いマットがあった。 転勤して三か月、知り合いの少ない町で、予定のない夜を少し変えたかったのだ。 ところが初めて挑んだ黄色いコースは、三手目でどうしても足が離れた。 何度も同じ場所に落ちる自分が恥ずかしくなり、真琴はレンタルシューズのひもを解きかけた。 そのとき隣で休んでいた青年が、少し離れた場所から声をかけた。 「もしよかったら、足の置き方を一緒に考えませんか」 悠人と名乗った彼は、正解を教える代わりに、どの突起なら踏めそうかを真琴に尋ねた。 言われるままではなく自分で選んだ場所に足を移すと、さっき届かなかった次の突起に指がかかった。 最後まで登れたわけではないのに、帰り道の真琴は何度も掌を見つめていた。

それから水曜の夜は、いつのまにか楽しみな時間になった。 悠人は壁を見上げるとき眉間にしわを寄せるくせがあり、難しいコースを登れた後ほど静かに笑った。 真琴が仕事の失敗をこぼした日は、彼は安易に励まさず、「それでも今日は来られたんですね」と言った。 新しいシューズの話から、二人は連絡先を交換した。 帰宅後に届いた「来週は黄色を越えられそうですね」という短いメッセージを、真琴は何度も読み返した。 恋をしているのかもしれないと思うと、ジムへ行く理由が増えた一方で、彼にどう見られるかが気になり始めた。
悠人は週に三回練習すると知り、真琴も無理に予定を空けるようになった。 友人に誘われた料理教室を断り、疲れた日もジムへ向かい、彼が挑戦する難しいコースの前に立った。 「あと少しで登れそうですよ」と言われるとうれしくて、指の痛みも平気なふりをした。 けれど、自分の好きな低い壁より、彼の目が向く高い壁ばかりを見る時間は、少しずつ苦しくなった。 ある晩、悠人が週末の初心者交流会に誘ってくれた。 真琴は反射的に「行く」と答えたが、その日は料理教室で、ずっと楽しみにしていた焼き菓子の講座があった。 予約を取り消した帰り道、スマートフォンに届いた悠人の「無理しないでくださいね」が、なぜか胸に刺さった。
交流会の日、真琴は疲れた体で壁に向かった。 組になった参加者が「好きなコースを選びましょう」と言うのに、彼女は悠人の姿ばかり探してしまった。 集中できずに落ちたあと、知らない参加者が尋ねた。 「その赤いコース、本当に登りたかったんですか」 真琴は答えに詰まった。 ジムを始めたころは、登れるかどうか以前に、壁の色を選ぶことさえ楽しかったはずだ。 他人の視線を追ううちに、自分の足がどこへ向かいたいのか分からなくなっていた。 その夜、悠人から「今日は元気がなかったですね」と連絡が来た。 真琴はいつものように「大丈夫」と打ちかけ、いったん文字を消した。 「本当は最近、あなたについていこうとして無理をしていました」と送ると、すぐには返信がなかった。 真琴は怖くなったが、言葉を取り消さなかった。
翌日、悠人から電話があった。 「気づけなくてごめんなさい」と言う彼に、真琴は首を振った。 「私が勝手に頑張りすぎたの。 よく見られたかったから」 しばらく沈黙が続き、悠人は意外なことを打ち明けた。 「僕は、真琴さんがいつも自分の方法を探しているところが好きでした。 最近、僕と同じ登り方をするから、何かあったのかなと思っていました」 真琴は耳まで熱くなった。 「好きって、登り方の話?」 「それだけじゃありません」 電話の向こうで、悠人が小さく息を吸う音がした。 「でも、焦らせたくないので、今すぐ答えなくても大丈夫です」 真琴は礼を伝えて電話を切り、日曜の予定を見直した。 消しかけていた料理教室の予約が、幸い一席だけ残っていた。
日曜日、真琴はレモンの皮を混ぜた小さな焼き菓子を作った。 甘酸っぱい香りの立つオーブンの前で、久しぶりに何も背伸びしていない自分に戻れた気がした。 できあがった菓子を一つ包みながら、悠人に渡したいと思ったのは、褒めてもらうためではなかった。 自分が楽しかった時間を、ただ分け合いたかったのだ。 水曜日、真琴はいつもの黄色いコースの前で彼を見つけた。 「これ、日曜に作ったの。 食べられない材料があったら遠慮なく言って」 悠人は包みを受け取り、「レモン、大好きです」と笑った。 そして「僕も一つ、お願いがあります」と言った。 「今度は壁の前じゃなくて、お茶を飲みながら話しませんか」 真琴はまっすぐに彼を見て、「うん、私もそうしたかった」と答えた。
その日の帰り、真琴は黄色いコースにもう一度挑んだ。 悠人とは少し違う順番で突起をつかみ、片足をゆっくり置き直した。 指先が最後の突起に届いたとき、下から彼の拍手が聞こえた。 マットに降りると、悠人が笑って言った。 「その登り方、僕には思いつかなかったな」 「私だって、昨日までは思いつかなかった」 二人は声を上げて笑った。 恋は、相手と同じ速さで登る競争ではない。 自分の好きな場所に足を置き、相手の選び方も大切にしながら、会いたい気持ちを言葉にすること。 真琴は初めて、誰かを好きな自分のままで、息がしやすいと思えた。

