「『助けて』の一言から、ふたりの景色が変わる」
商店街の真ん中にある時計塔は、三年前から四時八分を指したままだった。 冬の初め、町の広報誌を担当する紗英は、その時計塔を修復する募金企画を任された。 写真を撮り、寄付を集め、完成までの記録を残す仕事だった。 紗英には、人に頼るのが苦手という癖があった。 何でも一人で片づければ、迷惑をかけずに済むと思っていたのだ。

現地で出会ったのは、古い建物の修復を手がける技師の律だった。 彼は時計の針を指さし、「時間を戻すより、この町の時間をまた進めたいですね」と言った。 少し変わった言い方に紗英が笑うと、律も照れたように笑った。 二人は毎週土曜日、時計塔の下で作業の進み具合を確かめるようになった。 律は工具の使い方を説明するときも、分からない言葉があれば必ず言い直してくれた。 紗英は彼と話す時間を楽しみにしながらも、仕事以外の話題をなかなか切り出せなかった。
ある午後、律が重い資料箱を運ぼうとして立ち止まった。 通りかかった店主に「少し手を貸してください」と頼むと、店主は笑顔で箱の反対側を持った。 その自然なやり取りが、紗英には少しまぶしかった。 自分なら、無理をしてでも一人で運んでいただろう。
ある日、塔の古い引き出しから、修理記録と一緒に何十枚もの小さな紙が見つかった。 それは昔、商店街の人たちが「この時計の下で待ち合わせた思い出」を書いたものだった。 初めてのデート、迷子になった息子との再会、閉店した洋品店の最後の記念写真。 紗英は、その思い出も展示できないかと提案した。 律は「いいですね」とうなずき、汚れた紙を傷めないよう専門家に相談する手順を教えてくれた。 帰り際、彼が「無理なく進めましょう」と言ったのに、紗英は「大丈夫です」と答えた。
実際には、仕事が重なっていた。 募金の集計、展示の許可、広報誌の締め切りに加え、当日の案内看板まで自分で作ろうとしていた。 律から「何か手伝えることは?」とメッセージが届いても、「順調です」とだけ返した。 彼にできない人だと思われたくなかった。 好きな相手の前では、いつも頼れる自分でいたかったのだ。
修復記念の日まで一週間という夜、印刷所から電話が入った。 展示パネルに使う写真の解像度が足りず、予定していた大きさでは印刷できないという。 元の写真を探すには資料館の協力が必要で、翌朝までに手配しなければ間に合わなかった。 紗英は机に額を伏せた。 一人で頑張れば間に合うと信じていた時間が、とうとう足りなくなった。
スマートフォンには、律からの「準備、どうですか」というメッセージが残っていた。 紗英は何度も返信を書き直し、最後に短く送った。 「困っています。 少し相談してもいいですか」 律から電話がかかってきたのは、数分後だった。 事情を話すと、彼は責める代わりに「まず、明日までに絶対必要なものを分けましょう」と言った。 彼が資料館に確認を取り、紗英は印刷所と展示場所を調整する。 二人で仕事を分けると、手つかずに見えた問題が、少しずつ形を持ちはじめた。
電話の終わりに紗英は、ためらいながら尋ねた。 「私、頼りないと思いました?」 律はしばらく黙り、それから答えた。 「一人で背負い込んでいるのは心配でした。 でも、頼ってくれてうれしかったです」 その言葉は、褒められるより深く胸に残った。 助けてもらうことは、相手から何かを奪うことではない。 信じて任せる場所を、相手に渡すことでもあるのだと気づいた。
律も、初めて古い時計を任されたころは、分からないことを隠して失敗したという。 「今は、人に聞けることも技術の一つだと思っています」と彼は話した。 紗英は、彼の落ち着きが生まれつきの強さではなく、人に支えられながら育ったものだと知った。 そんな律を、前よりもっと好きになった。
記念式典の朝、商店街には冷たい風が吹いていた。 新しい針がゆっくり動き出すと、集まった人たちから拍手が起きた。 展示の前では、年配の女性が一枚の紙を見つめて泣いていた。 「主人と初めて会ったのが、ここの時計の下だったの」 紗英は隣に立つ律を見た。 彼も目を赤くしながら、「残せてよかったですね」と小さく言った。
片づけが終わるころ、時計塔は午後五時を知らせた。 紗英は深呼吸して、今度は仕事ではないお願いを口にした。 「今日の帰り、少しだけ一緒に歩いてもらえませんか」 律は驚いた顔をした後、「実は僕も、そう言おうとしていました」と笑った。 川沿いの道を歩きながら、二人は初めて、休日の過ごし方や好きな食べ物の話をした。 律が焼き芋に目がないと知り、紗英は思わず声を上げて笑った。
橋の上で律が足を止めた。 「これからも、困ったときだけじゃなく、うれしい日にも会いたいです」 紗英は手袋の中で指を握り、彼を見つめた。 「私もです。 あなたが好きです」 律は安心したように息を吐き、「僕も、ずっと」と答えた。 二人が振り返ると、遠くの時計塔の針は、ちゃんと次の一分へ進んでいた。
恋を進めたのは、何でも完璧にこなす姿ではなかった。 自分の弱さを隠さず、相手が差し伸べてくれた手を受け取ったことだった。 そして今度は、自分から会いたいと願いを伝えたことだった。 紗英はもう、誰かと並んで歩くために、一人で強がらなくていいと知っていた。


