役場の会議室に漂う空気は、意外なほどよそよそしかった。壁に掛かった古い地図や、使い込まれた木製の椅子も、まるで長年知り合いのように無言で居座っている。天井の蛍光灯が鈍く光り、初夏の陽が窓から斜めに射し込む。時折、外から鳥の声が遠くに聞こえて、どこか非現実的な静けさすら感じさせた。
蒼は、胸元で資料を強く握りしめていた。その手はかすかに汗ばんで、心臓の鼓動が耳の奥で大きく鳴っている。地域おこし協力隊として赴任して約半年。今日こそは、と眠れぬ夜に何度も練習をした新事業――「農業の効率化と若手移住者支援による村の未来構想」を、今、村役場の会議で正式に提案しようとしていた。
「――本日は、この場所をお借りして、わたくしより北川村の新たな農業システムの提案を……」
声が、予想外に裏返った。会議卓の周囲には、村役場の職員や柚子農家の代表、そして地元銀行勤務の川上結衣の姿も見える。だが空気は、妙な緊張と警戒心に満ちていた。年配の農家男性が、腕を組みながら険しい目で蒼を見つめている。その隣で、若い職員が誤魔化すような笑みを浮かべて紙に何かを書き込んでいた。
「――畑の見える化や、最新の草刈りロボット導入で作業の負担を減らします。と、同時に……新規就農者向けには町営シェアハウスを。SNSを使った情報発信で、村を広く知ってもらいたいと……」
言葉は次第に加速し、息も詰まりがちになった。自信があったはずの内容なのに、話せば話すほど、一つひとつの単語が宙に浮き、誰にも届かない気がしてくる。農家代表が渋い声で呟いた。「そんなもん、都会の連中みたいやなあ。きれいに言うけど、うちの畑ではそんな機械うまくいかんぞ」
「SNSで情報発信?誰がやるんじゃ。結局、わしらはよう知らんし、若い人なんか入ってこーへんわ」
次々に投げかけられる懐疑と不安。それに蒼は必死で頷きつつも、どう答えたらいいのかわからない。事前に結衣と語り合ったはずの“両立”の温度感も、今はうまく伝えられない。焦りで声がかすれ、資料のページを何度も手繰る指が震えた。
結衣は、そんな彼をそっと見つめていた。蒼の提案が、村の誰よりも真っ正直さからだと知っている。けれども、言葉の選び方ひとつで、こんなにも人と人との距離は遠ざかるのかと、彼女も寂しさを感じる。
そのとき、沈黙を破るように結衣が手を挙げた。
「すみません、少しだけ補足してもいいですか?」
会議室の視線が結衣に集まる。結衣は穏やかに立ち上がり、畑を歩くときの優しい声色でゆっくり語り出した。
「山本さんの話ですが、いきなり全部新しく、という意味ではないんです。昔ながらのやり方も残しながら、みんなが少しずつ楽になれる工夫を取り入れていく、そういう提案です。たとえば、お父さん、去年柚子の剪定に使った小さな電動ハサミ、便利でしたよね?ああいうふうに、一歩ずつ試しながら進めていけたら――と、私は受け止めました」
年配の農家が、ふっと顔を上げる。「……確かにな、あのハサミは手が楽やったな」

「それに、SNSの情報発信も、村の誰かだけに負担が行くのではなくて、協力しあったり、役場や若者の力も借りてやっていけたらいいと思うんです。少しずつ、“仲間”を増やしていけば、もしかしたら新しい風も入るかもしれません」
彼女の静かな語りに、場の空気がやや和らぐ。蒼はその様子を見て、救われた思いと同時に、胸が締めつけられた。自分の言葉ではすれ違いばかりだった温度を、結衣はたった数分で橋渡ししてくれた。自分の無力さが、今はどうしようもなく悔しかった。
会議が終わった後、蒼は誰にも気づかれぬよう会議室をそっと抜け出した。静まり返った役場の裏庭で、柱にもたれてうつむく。遠くでは、商店の占い好きのおばさんが柚子の皮を干している。「土佐の風は、迷いを吹き飛ばしてくれよる」なんて、今朝の占いを呟いていたことをふと思い出す。でも、今の蒼の胸には、ただ重く沈んだ悔いと、なぜか笑いたくなるような自分の不器用さだけが残っていた。
「……僕は、やっぱり村には向いていないのかもしれない」
吐き出すように呟くと、風が木の葉を揺らして応える。ふと足元を見ると、小さな柚子の芽が、ひっそりと地を割っていた。誰にも気づかれず、けれど確実に春を踏みしめている。
会議室から出てきた結衣が、静かに近づく。「蒼さん、ごめんなさい、勝手に口を挟んで……」
蒼は無言で首を振る。結衣は、彼の横顔をしばらく見つめた後、小さく言った。
「蒼さんの気持ち、本当に伝わっていました。今日は、みんな少し驚いただけです。本当は、誰だって自分の知らないことに不安なのだと思います。それでもきっと、蒼さんの熱意は、どこかで誰かの心に届いています」
蒼は目を閉じ、大きく深呼吸した。結衣の言葉は、ひんやりと優しい朝露のように心にしみこんでいく。会議室のざわめきが、遠い世界の出来事のように思えた。
「ありがとう……。でも、僕は……」
言葉の先を言おうとして、唇を噛んだ。結衣はにっこりと微笑み、蒼の肩をそっとたたく。
「大丈夫です。蒼さんと一緒なら、私もいろんなことを、もう一度考えなおしてみたいと思えたから。焦らなくていいですよ」
夕刻の風が、そっとふたりの間をすり抜ける。まだ踏まれてもなお芽吹く、小さな柚子の芽。そのたくましさに、蒼はほんの少しだけ、明日の自分を信じてみようと心に決めた。

