土佐の風、柚子色に染まる頃 第1話

朝五時、北川村の空には深い藍色がほんのり残っている。山の稜線は冷たい霧で輪郭を滲ませ、しんとした静けさの中に遠く川音だけが聞こえる。結衣は、重ね着したフリースのポケットに手を入れ、急ぎ足で実家の敷地を横切っていた。秋が深まるこの季節、村を挙げての柚子収穫祭の準備が始まっている。家を出るとき、父が「暗いき気ぃつけてな」と声をかけたが、結衣は「慣れてるから、大丈夫」と笑みを返した。

歩きながら胸元のケータイが微振動し、画面を覗く。見慣れぬ名前――“地域おこし協力隊・山本蒼”。短い逡巡ののち、無視して倉庫へ向かう。鍵を回して扉を引けば、凛とした空気を裂くように柚子の芳醇な香り。積み上げられた箱の奥、見知らぬ背中が忙しなく動いていた。

その青年、蒼は初対面の気まずさと緊張で、Tシャツの襟元に玉の汗をにじませていた。長い腕で力任せにシュロ縄を引っ張り、柚子を積み替えている。その動きにはどこか不器用さがあり、足元にいくつか転がる柚子が見えた。蒼は結衣に気付いて、やや戸惑い気味に会釈した。

「はじめまして。地域おこし協力隊の山本蒼です。今日からお世話になります」
端正な顔立ちと澄んだ声。語尾の柔らかさに、東京の響きが残っている。“都会の人”と村で噂されていた青年は、予想よりもずっと率直だった。

「川上結衣です。こちらこそ、よろしくお願いします」
会釈を返しつつ、結衣は足早に柚子箱の様子を確かめる。よく見れば、何箱かの柚子に細かな切り傷やつぶれが目につく。新米らしい失敗だな、と思い、結衣は注意深く傷んだ果実を箱から取り出した。

「それ…どうされました?」
「すみません、運ぶときに何個か落としてしまって。持ち方が悪かったみたいです」
蒼は少し気まずそうに正直に白状した。その素直さに、結衣はなぜか肩の力がふと抜けた。

「柚子って繊細なんです。皮が薄いから、ちょっと当たっただけで傷になっちゃう。こうやって、一つずつ手で包んだ方がいいですよ」
結衣はゆっくりと、紙で柚子を包む作業をやって見せる。蒼はそばでじっと見つめ、真剣にうなずく。

「ありがとうございます。…コツ、もっと教えてもらえますか」
その言葉に、結衣は思わず微笑んだ。

「はい。でも、焦らないで。お祭りまでまだ時間ありますから」
結衣の丁寧な言葉に、蒼の表情が少し和んだ。初めての村、初めての仕事。臆する気持ちは、きっと自分にもあったはずなのに。

外から、子供たちの遊ぶ明るい声が響いてくる。日が昇り始めると、倉庫の隙間から黄金色の光線が差し込みはじめた。結衣は黙々と作業を続けながらも、心の中で段取りを反芻していた。この忙しい時期に、新人への指導まで任されるのは正直しんどい。だが蒼の一途な眼差しには、不思議な真面目さと温度を感じる。

高知県安芸郡北川村を舞台にした恋愛小説の挿絵

「蒼さんって、東京から来られたんですよね?どうして北川村なんですか?」
ふいに、結衣は口にしていた。村の人間ならみんな気になる問い。それでも聞かずにいられなかった。

蒼はわずかに首をかしげ、小さな間のあとで言葉を探すように口を開く。
「…仕事がうまくいかなかったんです。都会も嫌じゃなかったけど、もう一度自分を見つめ直したくて。たぶん、それだけじゃ足りないと思うんですけど」
自嘲するような微笑の裏に、不器用な誠実さがのぞいた。

結衣もまた、かつて都会の事情や人間関係に押し潰され、戻ってきた過去がある。同じ種類の痛みが間に流れている気がして、胸の奥が一瞬ちくりと疼く。無理もない、とも、あなたなら大丈夫、ともまだ言えず、結衣は曖昧な声で返す。

「村暮らしって、思ったより難しくないですか?私も最初は全然馴染めませんでした」
と結衣が笑えば、蒼は意外そうに目を見開く。

「結衣さんは、なんでも出来る方だと思ってました」
「そう見えても、苦手なことだらけですよ。たとえば人と距離を縮めるのとか」
二人の間に、控えめな笑いが生まれるが、どこか気まずさも残る。微妙な沈黙。それでも、互いにその沈黙が嫌ではなかった。

ふと、朝市で近所のおばあちゃんが「今日は良い出会いの日じゃ」と結衣に呟いていたのを思い出す。予言めいたその言葉が、今この倉庫の中でふいに現実味を帯びた。蒼もどこか居心地悪そうに柚子の箱を持ち直し、その手元にはたしかな学習と誠実さが現れていた。

やがて、陽が高く昇り切る頃には、蒼の手つきも驚くほど滑らかになっていた。蒼が持ち上げる籠には、朝よりもずっと美しく並べられた柚子がきらきらと輝く。その様子を見て、自然とちいさな期待が心の底に灯る。傷つきやすくて柔らかいもの――柚子も自分も同じだ、と不思議な絆を感じる。

結衣は背を向け、棚から紐を取り出しながら、そっと心でつぶやく。――この人なら、もう少しここで、自分の場所を見つけてくれるかもしれない。

秋風が北川村を駆け抜ける。柚子の香りをまとって、村の隅々まで広がっていく。それはまるで、新しい何かの訪れを静かに告げる風だった。二人の背中を優しく押して、これから始まる日々の、ささやかな奇跡を予感させていた。

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