土佐の風、柚子色に染まる頃 第2話

八時ちょうど。北川村役場の玄関先には、朝の冷気がまだ尾を引いていた。霧に溶けるような小雨がひっそりと舗道を濡らし、足元には昨夜の雨露が玉のように残っている。結衣は長靴のつま先を確かめ直し、色褪せた合羽のフードを深く被った。隣では蒼が慣れない手つきで地図アプリを操り、ぎこちなく古い傘を広げている。その仕草はどこか不器用で、けれど一生懸命なのが伝わってきた。今日の任務は、村の高齢者宅を一軒一軒見回ること。柚子祭りの準備が佳境を迎えるなか、村の“長生き組”に声をかけて様子を伺い、何か困りごとはないかと気を配るのが、地域おこし協力隊の蒼と、地元出身の結衣の仕事だった。

古びた事務所の扉が開き、職員が小走りに顔を出した。「おーい、山道はまだぬかるんじゅうけえ、気ぃつけていってよ。濡れんなよ!」
「大丈夫です。行ってきます!」結衣は明るく応じ、蒼に向き直る。
「緊張してる?」
蒼は地図を握りしめたまま、ちらりと不安げな笑みを浮かべる。「なんとか…結衣さんが一緒なら、頑張れる気がします」
その言葉に、結衣はふっと笑い、田んぼ道の先を指さした。
「まずは杉原さんの家へ行きましょう。ちょっと坂道だけど、心配いりません。慣れますよ」
「ありがとうございます。地名も道も、まだ全然わからなくて…いちいち助けてもらってばかりですね」
蒼はため息混じりに頭をかく。その素直な頼りなさに、結衣の心はなぜかくすぐられる思いだった。

二人は石垣が続く細い坂道をゆっくり歩く。雨上がりの空気に、柚子の木の梢から新しい香りが立ち昇ってきた。途中、結衣が土手の菊の花を指でなぞる。
「この辺り、私の家の田んぼがあった場所なんです。蒼さんも、そのうち田植え体験します?」
「してみたいです。イネとヒエの区別から怪しいですけど」
二人の笑いが静かな村道に弾む。やがてコケむした門構えの古民家が現れた。杉原さんは九十歳近い小柄なおばあちゃん。障子越しに通る声が響くが、きつい土佐弁に蒼は半分も理解できず、困り顔になる。

「少し待ってて」と結衣が靴を脱ぎ家に上がる。蒼は縁側で手持ち無沙汰に庭先を見つめ、やがて招かれて畳に座る。
「東京から来たて聞いちゅうで。柚子畑、見ていきや!えいもんがぎょうさんあるぜよ」
蒼は面食らい、結衣の方へ視線を送る。結衣がそっと訳す。
「“東京から来たって聞いたよ。柚子畑、ぜひ見ていって。いいものがたくさんあるから”って」
「ありがとうございます。でも…なかなか聞き取れなくて、ごめんなさい」
杉原さんは朗らかに笑う。「構わんがよ。若いもんが来てくれて嬉しいがやき」
素朴な歓迎が滲み、蒼も胸の中がじんと暖まる思いがした。

蒼は内心、『村の言葉、やっぱり魔法みたいだ』と感じる。それでも隣に結衣がいてくれるだけで、異国に迷い込んだような不安はどこか和らいだ。杉原さん宅の訪問は和やかに終わり、家を後にする頃には雨も上がって、雲の切れ間からうっすら陽射しが差し始めていた。

高知県安芸郡北川村を舞台にした恋愛小説の挿絵

「助けていただいてありがとうございます」
蒼が素直に礼を言うと、結衣は短くうつむき微笑む。
「私も最初はからきし分かりませんでしたよ。住んでいるうち、自然と言葉が身体に染み込みます。きっと蒼さんも、すぐ慣れます」
蒼は大げさに首を振る。「本当かなあ。聞こえるの全部呪文みたいでした」
結衣は思わず吹き出す。その笑い声に、二人の距離が知らず近くなった。
「結衣さんみたいに話せたら、村の人たちとも、もっと近づける気がします」
蒼の声の奥に、真剣な願いが滲む。結衣は足を止めて、ゆるやかな山並みを指さした。
「今年の運勢、“根を張る年”って村の占い師さんが言ってました。この村に来て、自分の居場所を作る…蒼さんにもきっと当てはまると思う」
ぽつりと呟いた言葉は、蒼の胸にじんわりと沁みた。

次の訪問先に向かう道すがらも、蒼は分からない単語がある度に「もう一度」「どういう意味?」としきりに結衣に訊き返した。その度、結衣は丁寧に訳し、わからない言葉も必死で調べて伝えてくれる。その誠実さ、歩み寄りに、蒼は密やかに感謝していた。

「結衣さんは本当にすごいですね」
帰路の途中、蒼は胸の内を吐露する。
「私なんて…」
「人と人をきちんと繋いでくれる。自分は外からの他人だって思ってたけど――」
結衣は少し戸惑ったように首を振る。
「無理に馴染もうとしなくてもいいんです。でも、この村は一人ひとりをちゃんと見ようとする場所ですよ。蒼さんのことも、きっと誰かが見つけてくれます」
「本当に、見つけてくれるだろうか」
蒼は遠くの山を見ながら小さく問い、しばし黙った。雨が上がり、柚子の葉の上に陽光が踊った。

役場に戻る頃、結衣がふと口にする。「今朝、市場のおばあちゃんが、“お昼に運命の人に出会うかもしれない”って言ってました」
「えっ、それって――今、だったりして?」
蒼の冗談に、結衣は頬を少し赤らめてうつむく。「まだ正午までもうちょっとありますけど」
ふたりは小さな照れた沈黙のまま、ゆっくり歩く。けれど重苦しさはなく、心地よい予感の混じった沈黙だった。

見上げれば、雲間からやわらかな光が村を包む。陽だまりの中、二つの影がそっと重なり、胸の奥には淡い柚子色の未来の芽が、今、静かに息づき始めていた。

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