「好きな人の予定表に、自分から小さな丸をつける」
市役所の裏手にある小さな映画館では、毎月最後の金曜日に古い映画を一本上映していた。 上映後には客同士で感想を話す時間があり、二十九歳の菜月は半年ほど前から受付を手伝っていた。 仕事では人の予定を調整するのが得意なのに、自分の恋については、いつも誰かに誘われるのを待ってしまう。 受付に並ぶ切符を数えながら、今日こそは、と何度も考えていた。

相手は映写を担当する朝倉だった。 古い機械の調子が悪いときも慌てず、上映前には客席を一列ずつ確かめる。 映画が終わると誰より先に出口に立ち、最後の一人が帰るまで「おやすみなさい」と声をかけた。 菜月は、その丁寧さを初めて見た日から気になっていた。
二人は映画の感想ならいくらでも話せた。 悲しい場面で笑ってしまった理由や、登場人物が言いそびれた一言について、片づけながら夜遅くまで語り合うこともあった。 けれど駅へ向かう交差点に着くと、朝倉はいつも「また来月」と手を振った。 菜月も笑って振り返すだけで、本当はもう少し一緒にいたいとは言えなかった。
友人の千尋に話すと、「それ、相手は誘ってもいいって分からないんじゃない」と言われた。 「でも断られたら、次の上映で顔を合わせづらいよ」 「だからって、何も聞かずに半年過ごすの?」 菜月は返す言葉がなく、映画館の年間予定表を見つめた。
次の金曜、上映作品は昔の料理映画だった。 劇中で主人公が作るレモンのタルトに、客席から小さな歓声が上がった。 片づけのとき朝倉が「あれ、食べてみたいですね」と笑う。 菜月は胸の中で用意していた言葉を探したが、口から出たのは「おいしそうでしたね」だけだった。
帰り道、千尋にその失敗を報告すると、短い返事が届いた。 「誘うのは告白じゃなくて、提案だよ」 菜月は歩道橋の上で立ち止まり、少し考えた。 相手の気持ちを先に知ろうとするから、一言が重くなるのかもしれない。
翌朝、菜月はスマートフォンで駅前の菓子店を調べた。 季節限定のレモンタルトが土曜日だけ並ぶと知り、朝倉へメッセージを書いた。 「昨日の映画のタルトを思い出して、お店を見つけました。 来週の土曜、よかったら一緒に食べませんか」 送信した瞬間、心臓が早鐘のように鳴った。
既読はすぐについたが、夕方まで返事がなかった。 菜月は何度も画面を開きかけ、そのたび仕事の手を動かした。 夜になって届いたのは「誘ってくれてありがとう。 ただ、土曜は毎週祖父のところへ行く約束があって」という返信だった。
断られた、と胸が冷えた。 けれど続きには「日曜なら空いています。 それでも大丈夫ですか」と書かれていた。 菜月は声を出して笑い、電車の窓に映る自分が赤くなっているのに気づいた。 「もちろん」と返した後、ようやく夕食の味が戻ってきた。
日曜日、朝倉はいつもの黒いシャツではなく、淡い緑のセーターで現れた。 タルトを前にすると彼は少し緊張した顔で、「映画館の外で会うの、初めてですね」と言った。 菜月も「私、今日までずっと緊張してた」と答えた。 同じ気持ちでいたのだと知って、二人は思わず笑った。
話題は映画だけにとどまらなかった。 朝倉は祖父が昔、町の写真館を営んでいたことを話し、菜月は転職したばかりのころ、この映画館に救われた夜があったと話した。 彼は「受付で最初に声をかけてくれたの、覚えています」と言った。 菜月は覚えてもらえていたことがうれしくて、タルトの最後の一口をゆっくり味わった。
ところが店を出た直後、朝倉の電話が鳴った。 祖父が自宅で転び、病院に付き添うことになったという。 彼は何度も謝ったが、菜月は「行ってあげて。 帰りのことは心配しなくていい」と言った。
夕方、朝倉から祖父は大事に至らなかったと連絡が来た。 その後に「今日は途中までになってしまったけれど、すごく楽しかったです」と続いていた。 菜月は「私も」と打ってから、もう一行を足した。 「また会いたいです。 映画館のない日にも」
翌週の水曜日、朝倉は仕事帰りの菜月を駅前の小さな広場に呼び出した。 植え込みの金木犀が香る中、彼はポケットから折りたたんだ紙を取り出した。 そこには町の喫茶店や古書店、散歩道が手書きで並び、日曜の日付に小さな丸がついていた。 「僕からも誘いたかったんです。 これ、一緒に行けたらうれしい場所です」
菜月は紙を受け取り、少しだけ勇気を出した。 「じゃあ、その次の日曜は私が考えてもいい?」 朝倉はうなずいてから、照れたように言った。 「菜月さんが好きです。 映画館の外でも、恋人として会ってくれませんか」 「私も好きです」 そう答えると、朝倉の肩から力が抜け、二人は同時に笑った。
菜月は初めて、自分が待っていた時間の長さを惜しいとは思わなかった。 あの時間があったから、彼の優しさを知り、同時に自分の臆病さにも気づけた。 けれどこれからは、偶然同じ帰り道になるのを待たなくていい。 二人の予定表には、自分たちの意思でつけた小さな丸が増えていく。
恋を動かしたのは、相手を振り向かせる駆け引きでも、完璧な告白の台詞でもなかった。 「一緒に行きませんか」と、答えを相手にゆだねられる形で扉を開けたことだった。 断られる可能性も含めて、自分の願いを丁寧に差し出す。 その小さな一歩から、二人だけの物語が始まった。

